昭和42年10月24日朝のご理解
入力者 大坪寿子
商売人が(つかいましてしょうごのなかに???相手一つで二つ売れ)という、相手一つで二つを売る。物を買いに参りますと、なかなか愛想がいい、愛想がいい、いわゆるなかなか奉仕精神がいっぱいである。つい買わんでよいものまで買ってしまう。というのである。そこが商売人の、ようはつけなんです。相手一つで二つ売れと、こういうような、(???あります)お道の信心は、真心一つ、二つじゃ、三つじゃない。もう無限の限りない信用を追うことが出来る。はい。これは私が根が商売人ですから、まー商売の事になりますけども、これは一事が万事に通じることだこうと思います。ね。いかに、相手一つで二つ売ってもです、相手だけでは、本当の繁盛の(?もとには)ならない。それは商売も(???両手さがりましても)ほんとにそれは、ほんとにピンからキリまであるんですよ。(と??????)たしかに、神様は商売道と、こう、道、おーその、本気で体得しなければ、一人前の商売人にはなれないように、ですからそれはピンからキリまであるから、ところが商売が上手だからと言うて、設けだすという、限ってないのです。ね。あっちの奥さんはなかなか愛きょがいい。ためにはお客さんがようつく。もしそうだからというて、なら、繁盛しておるとは限らん。いや、財産家になるとは限らん。あれだけ利口であれだけ愛きょがある。(???悪のないごたるけど、どこからか抜けていきよる。???)かというて、(ここは???)愛きょうはない。愛想もない。それでもやっぱり、何とはなしに、財産がでけてきよるというお店もある。売ると言うことだけなら、相手一つで二つも三つも売るかもしれんけれどもです。ほんっとに幸せになるとか、ほんとに財産を残すとかというのは、そうではないことが分かってきますね。ところがです、真心と言うのは、真心一つで、真心でかえって売りそこなうようなことがあるかもしれん。あたくしどもの、小学校の時の(???様は)のがあったですね。呉服屋の番頭にいったんです。小僧さん。それがお客さんが見える。反物を見せてくれと言うから見せた。そしたら大層その柄を気に入って、買おうと言うことになって、その品物を(あわせよったところが、傷があった???)ね。ところでその小僧さんは、「お客様、これはここにこういうような傷があります」というて、いうたところが、「あーそりゃ、せっかくだけれども、んなら、又にしよう」とこういうことになって、こういうこと。それを見ておった主人がもうそれこそ、、「お前馬鹿じゃないか」というて怒った。と、「いわんどきゃ、うれるのに。こっちからわざわざ傷があるとを、こっち言うことじゃろか。」とうとう、首になってしもうた。けれどもその小僧さんは、だんだん、商売を身に付けて、商売をするようになったら、大変な、あー、金持ちになったけれども、その、自分が雇われ取ったとこの店は、あー、衰微してしもうたというような、あー、ことであった。ね。真心のために売れそこなうことも、ないとも限らん。ある。けれどもそこにはね、無限のものが、限りのないものが、信心とはそこを、わたくしは教える、てもらえると思うておる。の神様は。ね。
四神様の御教えの中にも、「氏子、願いが成就せん時には、真がかけたと悟れ。」いわゆる、真心がかけたと悟れと、こう仰っておられます。おかげの受けられないことはないと、おっしゃておられます。もしおかげを受けられんなら、もしそのことが成就せんなら、「お前の真心がかけたんだ。そこに、真心の追求がある。」そこでそういう、無限のものがいただけれる。限りのないものがいただけれる。いわば、天地の信用が受けることが出来れると言うような、なら真心とは、どういうことを持って、なら真心と言うか。わたくしも、「ちょーいと???」、真心のようなつもりでおるばってんが、とこういう。ね。真心のつもりじゃいかん。ほんとにそれを神さんが受けてくださるものでなからなければいけないということを、感ずるです。ね。信心とはだから、真心の追求なのである。ね。真心とは、第一条件がないことである。真心には条件があったら、真心とは言わない。真心とは、(???ちからおしみ、働き惜しみと、ゆうしん)自分の身ばっかりを大事にして、働こうとしない人がおる。ね。それが真心じゃ。と、これはあたくしが頂いておる御教えです。真心とは条件のないこと。これだけお参りしよるけん、こげなおかげを頂くじゃろう。これだけお供えしよるけん、こんくらいのことはおかげ頂くじゃろ。と、まるきり、エビで鯛釣るようなことをいう。又、そういうことを思うておる。いわばホントのおかげをいただけないですね、いわゆる、無尽、無限と、こういう無限に繋がるおかげはいただけない。もうどこまでも、純粋な、条件のない、ものでなからなければならない。同時にそれは、体惜しみをしておるのだ。力を、の、出し惜しみをしておるのだ。ね。こういただてまいりますとね、お互いがですね、「おかげをいただけれんはずだなーと」こう、思うものを、皆さんが心に感ずるなら、皆さんはまーだ、おかげのいただけれる希望が、希望を持っているのだ。ね。けれども自分は、真心である。自分は出し惜しみをしていない。力惜しみをしないというように、感ずるなら、もうあなたの信心は、もう、いわばそれまで。そこまでなんです。真心というものには限りがないからであります。だからおかげもまた、限りのないおかげに繋がることができるのです。ね。無尽蔵。無尽蔵のおかげを頂く。あたくしども商売をさせていただいておる時には、ほんとにその、相手ひとつで二つを売る。と(むこうむいちから???)、ね。ここにないことでも、まー表現している。相手の関心をかえばです、相手の人はいらんものでもこうてくれと。「もうあんたの商売上手には負けた」と。「もういらんばってん、買う」といって、まーいうようなことを言われることがある。もういよいよ、「こーりゃ商売がうまいなー」とこう思うて。それで信用を得たかというとそうじゃない。この次には「もうあれからだまされんごっせなにゃん」ということに、いわばなるです。(????かにならんのである)口だけじゃーいかん。いわゆる愛きょうだけではいけん。と。ね。商売をさせていただくでも、これは何をさせていただくでも、必要なものは、真心である。たまには損をすることがあるかもしれん。売れそこなうことがあるかもしれん。けれども、真心、条件がないのである。ね。あたくしどもその真心を本気でひとつ追求しなければならん。その真心とは、第一条件があってはならない。ね。いわゆる条件つけて信心する人があるんです。ね。「どうぞおかげを頂かせて下さい。そのかわりに、こう、こうもします。あーもします。」ね。これではやはり、といわー神様がだまされなさるかはしらん。いうならば。けれども、(三度にと???)神様はだまされるようなことはなかろうと、わたしは思うです。神様がだまされなさるというたらおかしいですけれどね、そこにはやはり、そういう一つの理があるんですよ。ね。昔から、「こういたしますから、こうして下さい。」と、いわば条件をつけて神様にお願いをして、おかげを頂くと言う、いわば手もある。そりゃ、どこまでも手だ。ね。けれども、(そうー???)いつも行こうと思うても、おかげを頂ける事はない。いわゆる限りのないおかげの繋がることは出来ない。ね。ですから、私どもは、そういう手を使うよりも、
それがですねー、えー、最近お道の中にも、昨日秋永先生が、えー、ざっしょうの教会で筑水の連合会の信徒会があった。それに出席して、もういわゆる、連合会の最高幹部という人が言われる。それに、うーん、信心のいっち番中心になるもの、真髄というのは、ね、いわば、そのー、奉仕だとこう、つまりそりゃ、御用ということである。いわば「信心は御用なり」とこう言われたと、まーそれをきいとってから、何かその人の信心を信用しとったけれど、まーがっかりしたといったようなことを言うております。だからこういうことなんかでもです。いわば、おかげをいただく人の手であるんです。手段なんです。方法なんです。ね。いわば、いうならば、神様を誘惑させる。神様を騙すようなもの。いうならば。ね。またそういう一つの手もある。ね。ところがここんところがですね。たとえばお供えをさせていただかなければおられないという、その無条件のもの。御用をさせて頂かなければおれんという、(??ようしん)をしないもの。これなら真心なんだからおかげ頂く。それでもです、真心のところをですね、真心のところをいい加減にしてですね、そして御用では助かる、お供えすりゃー儲かる。うん。それを信心の生命のように、たとえばだんだんなってくるとするなら、もうその信心は、わたしはこれはもう邪教だと思う。もうほんとの信心を組み違えておると思う。ね。おかしいでしょ。御用さえ一生懸命しよりゃー、おかげ頂く。もうどこそこにおかげが現れてくる人、一時はわいてくるけれども、それはほんとなものじゃない。そりゃもう真心を追求していくことが信心。ね。その真心を追求させていただく。そして、昨夜のご理解に繋がる。限りなく美しくなろうということなんです。ね。限りなく美しくならせて頂くというところに、あたくしが、真心が、ね。そこんところがだんだん分からせていたでくところからです、御用もさせていただかなければおられんのであり、お供えもさせて頂かなければおられんのである。ね。そこには条件もない。卑しみもない。出し惜しみもない。そのことが嬉しいのである。そのことが有難いのである。ですからそれは御用するから助かるのではなくて、それは真心があるから助かるのである。ね。そこんところをですね。間違わないようにしないと、やりそこなう。そういう例がいくつもあるんです。あたくしのしっとる限りでも、御用すりゃ助かる、で、まー一生懸命御用して、まーほんとにおかげを頂いた。ところが長くは続かなかった。いうならまー、神様がそういつまっでん、(??まーだ?????)じゃったということになるわけである。ね。
もうひとつ、愛きょう一つで二つを売ることが出来る、商売道。信心の道はこうではない。ね。真心一つで、無限のものを頂こうというのである。限りないものを、に、繋がろうというものである。ね。そこから、限りない御用も、限りない、お供えならお供えでも、出来るのである。そこには、喜びが必ず伴う。ね。条件がない。そういう。まー言葉でいわー、それだけなんですけれども、その真心といやー、なかなか、(???よごないます。)限りなく美しくならせていただけば頂くほど、「はー自分の真心はまーだ、ほんなもんじゃないんだなー、ほんなもんじゃないんだなー。」ということになってくる。そこに純粋な真心がいよいよ現していけれることになってくる。だからほんとうの真心を、ほうとうのものになからなければ、おかげを受けられんというのじゃない。ね。これが真心だと一生懸命なもの。それが、ね、信心がだんだん分かってくると、そりゃこれではまだまだということになってくるだけであってですね、しかしそれは、限りなくここんとこは、繰り返されていく。ね。どうぞ真心一つで、無限のものに触れられる、信心、そういうおかげを頂きたい。とわたくしは思う。ね。いうならばしかともない、ね、うーん、小手先の聞いた信心とでも申しましょうか。いかにもそれは立派のようであっても、とにかく人間の浅い知恵、浅い考えがすることですから、いわゆる、神ながらなおかげになってこない。ね。神ながらなこと。神ながらな物。それには条件があってはならない。神ながらなものを頂くためには、ね、「神様の働きというのは、ほんとに恐れ入ってしまう。」ね。たらず、余らずというようなことがある。ね。例えばです。おかげがどれだけ必要であってもですよ、ねー。足らんこともねかりゃ、余ることもない。そういうようなですね、いわゆるおかげに繋がっていく、信心をさせてもらわにゃいけん。それにはいよいよ、めいめいの信心の程度に応じてです、ね、いわゆる祈願、ね、ですけれどもです、ね、これはまだ信心が足りんからだというのはです、これは私の真心がまだ足りんからだということになるのです。ね。その真心をひとつ、追求していきたいと思うです。どうぞ。